カテゴリ:紀尾井町と清水谷( 5 )

清水谷の由来

所在地 千代田区紀尾井町

 紀尾井町きおいちょうを南北に貫いているこの公園前の通りは、中でも、公園を出て右に上った交差点の辺りは江戸時代から「清水谷しみずだに」と呼ばれてきました。

尾張屋板江戸切絵図にも「シミズタニ」と記されています。

 それは、周囲から清水が湧き出しており、通行人に喜ばれていたためといいます。

 この清水谷公園の改修に際して、公園の名にちなんでここに湧水を復原しました。
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by tokyo-sadou | 2010-06-01 00:05 | 紀尾井町と清水谷

清水谷公園の成り立ち

清水谷公園のあるこの辺りは、江戸時代の紀伊家、井伊家の屋敷境にあり、この境が谷であったことと、紀伊家屋敷内に霊水(清水)が湧き出ていたことから、清水谷と呼ばれていました。「清水谷公園」の名は、この地名から名付けられました。

 清水谷公園は麹町区清水谷の景勝地に建てられていた大久保利通遭難記念敷地一帯が、同碑建設発起人から寄贈されたのを受け、東京市が、明治22年5月、都市計画決定し、明治23年3月に開園しました。

 開園された当時は、自然の地形を残した背景と、藤、桜、松、楓などの四季折々の風情があり、中央には、大久保公の追悼碑が配置され、この公園の歴史の尊さを感じさせるものになっています。

園内には、江戸時代の水道に使われていた玉川上水桝が展示され、水にゆかりの深いところだったことを証明しています。

 自然を色濃く残した清水谷公園は、周辺の業務・商業施設の安らぎの場として、また、緑豊かな都会のオアシスとして貴重なオープンスペースとなっています。

http://tokyochiyoda.blog.shinobi.jp/Category/35/から
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by tokyo-sadou | 2010-06-01 00:04 | 紀尾井町と清水谷

紀尾井町の町名の由来

この一帯には、江戸時代に紀伊和歌山藩徳川家の麹町邸がありました。明暦3年(1657)の大火の後、この地を拝領しました。

 紀伊徳川家は、徳川家康の十男便頼宣に始まる家で、尾張家(九男義直)、水戸家(十一男頼房)と共に御三家と称されました。頼宣は慶長8年(1603)常陸水戸藩主、ついで慶長14年(1609)駿河府中藩主を経て、元和5年(1619)に紀伊和歌山藩主となり、紀伊国と伊勢国の一部を領地としました。紀伊徳川家は、以後、14代にわたって明治維新まで続きましたが、その中で、8代将軍吉宗と14代将軍家茂は、藩主から将軍の座についています。石高はほぼ55万5000石でした。

 明治5年、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町」という町名になりました。

千代田区サイトから
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by tokyo-sadou | 2010-06-01 00:03 | 紀尾井町と清水谷

偕香苑(かいこうえん)の由来

所在地 千代田区紀尾井町2-1 (清水谷公園 内)

 清水谷公園は、北白川宮家の邸があった場所で、明治二十三年に東京市へ下腸され、同年東京市立清水谷公園となった。
 昭和三十一年都立公園となり、昭和四十年、千代田区に当公園が移管され、「千代田区立清水谷公園」となる。
 移管後、公園内に先代秋元馨氏が現建物である「偕香苑」を昭和五十九年に建設、以降茶室として利用され、広く日本文化の伝承と地域貢献に努めてきた。
 平成十八年三月に御子息である、秋元裕氏から「偕香苑」をより多くの方々に利用されたいとのことから、千代田区に寄贈された建物です。

心字池を囲む緑陰に、静かに佇む茶室は、まさに市中の山居。
周囲の喧騒、都会のデジタルな時間を忘れ、穏やかな「時」そのものに心洗われる場所です。
鳥の囀り、木々のざわめき、一陣の風、雨の音……。全てが茶室のしつらえの一部です。
陽射しが角度を変えるたび、にじり口や窓から入る木漏れ日が畳に森のシルエットをなぞります。

ここに坐して、一服を拝し、自分の心を顧みるひと時を持つことは、趣味や稽古ごとを越えた喜びがあるでしょう。
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by tokyo-sadou | 2010-06-01 00:01 | 紀尾井町と清水谷

弁慶橋の由来

赤坂から稽古場へ歩くと必ず通る「弁慶橋」。仕事のこと、人間関係、心もち・・・普段の事情は堀の向こうにお預けにして、この弁慶橋を渡ったら、しばし心のギアを外してニュートラル(素)になりませんか。
俗世から洗心の場に向かう露地でもあるこの「弁慶橋」について少し触れます。


所在地 千代田区紀尾井町~港区赤坂 
橋下  弁慶堀
 文化財  弁慶橋・弁慶堀
 この橋を弁慶橋といいます。橋が架かっている弁慶堀とともに、「江戸城外堀跡」として文化財指定されています。
 ところで、ここには江戸時代は橋が架かっておらず、人々は堀沿いに東に進んで赤坂門を出なければなりませんでした。
 ここに、橋が架けられたのは明治二十二年(1889)のことです。江戸時代、神田の鍛冶町から紺屋町・岩本町辺りを流れていた藍染川に架かっていた弁慶橋が明治十八年(1885)頃に廃橋となったため、その廃材を用いてここに橋が架け替えられ、弁慶橋の名を継承したといわれています。

和風の美しい橋の姿は、春の桜・冬の雪景色を背景として明治以来東京の名所として親しまれ、絵葉書や写真・絵画の題材となっていました。

 現在の橋は、昭和六十年十二月に改築されたもので、全長41.06m、幅22mです。架け替え前の弁慶橋には、親柱にそれぞれ擬宝珠がありました。筋違橋・日本橋・一ツ橋・神田橋・浅草橋の古い擬宝珠を集めて被せてあったといいます。現在は、それら古い擬宝珠は用いられていません。
平成十六年十二月  千代田区教育委員会

★今、目の前を通る人ではなく、心の目では、いにしえにこの橋を、今の自分の心持と同じような誰かが渡ったのではないか・・・そんな時間を超えた景色に目を向けてみるのはいかがでしょう。
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by tokyo-sadou | 2010-06-01 00:00 | 紀尾井町と清水谷